私たちは人間なのだ!
「障害のあるアメリカ人法(Americans with disabilties Act.1990)ADA法(連邦法)」は、障害者自身に初めて権利を与えた法律です。日本の社会福祉法は支援法で、障害者自立支援法は運営法です。日本で検討されている障害者差別禁止法が権利法になります。制定が待たれます。このADA法での表記でAmericans with disabilties"障害のある"という表記の前は、a disabled personと言いました。直訳では無能な人"とも読み取れます。これに対して、世界的な当事者団体「ピープルファースト」の人たちが、異議を唱え「人間らしく扱え、私たちはまず人間なのだ」とう痛切な叫びから、"障害のある"という表記になりました。
関係論の立場で考える
知的障害の方々を理解しようとする時、<できるーできない>のパフォーマンスの世界で物事を考えるなら、それは大きな間違いを犯すことになります。ズボンを履くことにしろ、歯磨きをすることにしろ、1+1=2を理解することにしろ、<できるーできない>の世界でみれば私たちは圧倒的にできる側であり(ほとんど努力していないにもかかわらず)彼らはどう努力してもいつまでもできない側であるからです。つまり何かが起こったとき(問題行動といわれるようなことが起こった時)、できる側はできない側を批判することで解決の道が開かれた気になるのです。ガラスが割れたとき、自傷をする時、職員は「あいつは重い障害があるから、ちっともわからなくて、言うことを聞けなくて、ガラスを割ったり、自傷をしたりしているのだ」と理解して、相手を、障害者を批判し、叱責すればことが足りてしまうのです。そして行き着く先は、躾であり、訓練、鍛錬ということになります。このような対応を仮に実体論と呼びます。人生の幸福を考える時、この実体論は不毛です。そして、私たちが今目指すのは関係論の立場です。それは、今ここで起こっている現象(見える行動見えない心も含めて)全ては、二人の間で起こっていることであり、一方的に障害者の立場の側において起こっていることではないという理解です。ガラスが割れるのは、彼が重い障害者だからということではなくて、こちらが相手の気持ちを苛立たせるようなことを言ってしまったからではないのか?というように、二人の関係について気持ちを馳せることです。
関係論の世界に入り込めば、そこは相互作用の世界です。自分が変わることなく、相手だけ変えていこうとする実体論と、まず自分が変わり、そして相手が変わっていくという(相互作用・子育てでは当たり前)関係論の立場ではここが決定的に違います。
私たちは自分自身に聞いてみる必要があります。「どんな時に、生まれてきて良かったと感じますか?」あるいは、「どんなときに生きがいを感じますか?」と
声をかけながらの支援を!
次の行為(支援)をする時は声かけをしてください。単に丁寧な対応ということではなく、見える行為の背景にある辛さ、悲しさ、喜びなどの感情を共有、共感するという回路をつくることはとても大切です。最初は意識的に、慣れると意識しなくてもできるようになります。関係論に立てば、これまで見えなかった新たな世界が見えるようになります。幸福感を感じることもこれまでより多くなると思います。
(職員向けメッセージより)